2025年6月にレッチェ歴史地区で始まった都市考古学発掘調査により、この都市の初期中世の歴史を明らかにする重要な発見がありました。以前の世紀の発見と合わせると、この構造物はローマ円形劇場を政治的機能を持つ要塞、すなわちビザンチン・カストロンへと変貌させた可能性のある防御システムの存在を示唆しています。
最近の調査では、円形劇場の北側に隣接する、二つの異なる段階で建設された堅固な壁が発見され、これが要塞化の証拠であることが示されています。特に注目されるのは、幅3.70メートル、高さ2メートルを超える壁で、「a sacco」と呼ばれる工法で作られており、解体された円形劇場や近隣の建造物から転用された大きな石材を、瓦礫の芯材の両側に配置して構築されています。
この防御システムは、キリスト教の台頭と、404年にホノリウス帝が剣闘士試合を禁止した勅令により、円形劇場が本来の目的を失った、政治的・軍事的に不安定であった西暦5~6世紀に遡ると専門家は推定しています。この時代のレッチェは、西暦549年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下に入り、その後約5世紀にわたってその一部であり続けました。ゴート戦争中の東ゴート族の王トティラによる略奪など、不安定な時期を経てビザンチン領となったレッチェにおいて、この要塞化は当時の状況への適応を示すものと考えられます。
このようなローマ時代の建造物を要塞として再利用する手法は、当時の帝国全域で見られた一般的な戦略でした。例えば、ローマのコロッセオも中世には要塞として利用された記録があり、これは資源の有効活用と防衛力の強化という、当時の社会経済的状況を反映しています。今回のレッチェでの発見は、ローマ時代の遺産が初期中世においてどのように再解釈され、新たな機能を与えられたかを示す貴重な事例であり、レッチェの都市変遷の理解を深めるものです。
この発見は、レッチェの初期中世における変容に新たな視点を提供し、ローマ時代の記念碑が新たな文脈でいかに適応され、再利用されたかを浮き彫りにします。レッチェのバロック建築の豊かさの陰に隠された、より古く深いローマ時代の遺産を強調することで、この都市は文化・考古学の中心地としての国際的な威信を高める可能性を秘めています。